儀式

夢応の鯉魚

  1. `むかし延長の頃 
  2. `三井寺に興義といふ僧ありけり 
  3. `絵に巧なるをもて名を世にゆるされけり 
  4. `く所 
  5. `仏像山水花鳥を事とせず 
  6. `寺務のある日はに小船をうかべて 
  7. `網引釣する泉郎に銭を与へ 
  8. `たる魚をもとの江に放ちて 
  9. `其魚の泳躍ぶを見ては画きけるほどに 
  10. `年を経て細妙にいたりけり 
  11. `或ときは絵に心を凝してをさそへば 
  12. `夢のに江に入りて 
  13. `さばかりの魚とともに泳ぶ 
  14. `覚むればやがて見つるままを画きて壁にし 
  15. `みづから呼びて夢応鯉魚と名付けけり 
  16. `其絵のなるをて乞ひむるもの前後をあらそへば 
  17. `只花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ 
  18. `鯉魚の絵はあながちに惜みて 
  19. `人毎に戯れていふ 
  20. `生を殺しを喰ふ凡俗の人に 
  21. `法師の養ふ魚必ずしも与へずとなん 
  22. `其絵と俳諧とともに天が下に聞えけり
  1. `一とせ病に係りて 
  2. `七日を経て忽にを閉ぢ 
  3. `息絶えてむなしくなりぬ 
  4. `徒弟友どち集りて嘆き惜みけるが 
  5. `心頭のあたりのし暖なるにぞ 
  6. `若しやと居めぐりて守りつも三日を経にけるに 
  7. `手足すこし動き出づるやうなりしが 
  8. `忽ち長嘘きて眼を開き 
  9. `醒めたるが如くに起きあがりて人々にむかひ 
  10. `人事を忘れて既に久し 
  11. `幾日をか過しけん 
  12. `衆弟等いふ 
  13. `師三日に息たえ給ひぬ 
  14. `寺中の人々をはじめ 
  15. `日頃陸まじくかたり給ふ殿原も詣で給ひて 
  16. `のことをもはかり給ひぬれど 
  17. `只師が心頭の暖なるを見て 
  18. `柩にもめでかく守り侍りしに 
  19. `今や蘇生り給ふにつきて 
  20. `かしこくも物せざりしよとびあへり 
  21. `興義点頭きていふ 
  22. `誰にもあれ一人 
  23. `檀家の平の助の殿のに詣りてさんは 
  24. `法師こそ不思識に生き侍れ 
  25. `君今酒を酌みき鱠をつくらしめ給ふ 
  26. `しばらくめて寺に詣でさせ給へ 
  27. `稀有の物がたり聞えまゐらせんとて 
  28. `彼人々のあるを見よ 
  29. `我詞に露たがはじといふ
  1. `使みながら彼に往きて 
  2. `其由をいひ入れてうかがひ見るに 
  3. `主の助をはじめ 
  4. `令弟の十郎 
  5. `家の子掃守など居めぐりて酒を酌み居たる 
  6. `師が詞のたがはぬを奇しとす 
  7. `助のの人々此事を聞て大に異しみ 
  8. `先箸をめて 
  9. `十郎掃守をも召し具して寺に到る 
  10. `興義枕をあげて路次のをかたじけなうすれば 
  11. `助も蘇生を述ぶ 
  12. `興義まづ問ふていふ 
  13. `君試に我いふ事を聞かせ給へ 
  14. `かの漁父文四に魚をあつらへ給ふことありや 
  15. `助驚きて 
  16. `まことにさる事あり 
  17. `いかにしてしらせ給ふや 
  18. `興義 
  19. `かの漁父三尺あまりの魚を籠に入れて君が門に入る 
  20. `君は賢弟と南面の所に碁を囲みておはす 
  21. `掃守傍に侍りて 
  22. `桃のの大なるをひつつの手段を見る 
  23. `漁父が大魚を携へ来るを喜びて高杯に盛りたる桃をあたへ 
  24. `又杯を給ふて三献飲ましめ給ふ 
  25. `鱠手したり顔に魚をとり出でて鱠にせしまで 
  26. `法師がいふ所たがはでぞあるらめといふに 
  27. `助の人々此事を聞きて 
  28. `或は異しみ或はここち惑ひて 
  29. `かく詳なる言のよしを頻に尋ぬるに 
  30. `興義かたりていふ
  1. `我此頃病にくるしみて堪へがたきあまり 
  2. `其死したるをもしらず 
  3. `熱きここちすこしさまさんものをと 
  4. `杖に扶けられて門を出づれば 
  5. `病もやや忘れたるやうにての鳥の雲井にかへるここちす 
  6. `山となく里となく行き行きて 
  7. `又江の畔に出づ 
  8. `湖水の碧なるを見るより 
  9. `現なき心に浴びて遊びなんとて 
  10. `そこに衣を脱ぎ捨てて 
  11. `身を跳らして深きに飛び入りつも 
  12. `彼此に泳ぎめぐるに 
  13. `より水になれたるにもあらぬが 
  14. `ふにまかせて戯れけり
  1. `今思へば愚なる夢ごころなりし 
  2. `されども人の水に浮ぶは魚のこころよきにはしかず 
  3. `ここにて又魚の遊をうらやむ心おこりぬ 
  4. `傍にひとつの大魚ありていふ 
  5. `師のねがふ事いとやすし 
  6. `待たせ給へとて 
  7. `の底にゆくと見しに 
  8. `しばしして冠装束したる人の 
  9. `の大魚に胯がりて 
  10. `許多鼇魚をひきゐて浮び来り 
  11. `我にむかひていふ 
  12. `海若の詔あり 
  13. `老僧かねて放生の功徳多し 
  14. `今江に入りて魚の泳躍をねがふ 
  15. `金鯉が服を授けて水府のたのしみをせさせ給ふ 
  16. `只餌の香ばしきにまされて釣の糸にかかり 
  17. `身をふ事なかれといひて去りて見えずなりぬ
  1. `不思議のあまりにおのが身をかへり見れば 
  2. `いつのまに鱗金光を備へて 
  3. `ひとつの鯉魚と化しぬ 
  4. `あやしとも思はで 
  5. `尾を振りを動かして心のままに逍遥す 
  6. `まづ長等の山おろし 
  7. `立ゐる浪に身をのせて 
  8. `志賀の大わだの汀に遊べば 
  9. `かち人ののすそぬらすゆきかひにされて 
  10. `比良の高山影うつる 
  11. `深き水底にくとすれど 
  12. `かくれ堅田の漁火によるぞうつつなき 
  13. `ぬば玉の夜中の潟にやどる月は 
  14. `鏡の山の峰にすみて 
  15. `八十の湊の八十隈もなくておもしろ 
  16. `沖津島山 
  17. `竹生島 
  18. `波にうつろふ朱の垣こそおどろかるれ 
  19. `さしも伊吹の山風に 
  20. `朝妻船も漕ぎ出づれば 
  21. `芦間の夢をさまされ 
  22. `矢橋の渡りする人のなれ棹をのがれては 
  23. `瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ 
  24. `日あたたかなれば浮び 
  25. `風あらきときは千尋の底に遊ぶ 
  26. `にも飢ゑてほしげなるに 
  27. `彼此𩛰り得ずして狂ひゆくほどに 
  28. `忽ち文四が釣を垂るるにあふ 
  29. `はなはだ香し 
  30. `心又河伯の戒を守りて思ふ 
  31. `我は仏の御弟子なり 
  32. `しばしを求め得ずとも 
  33. `なぞもあさましく魚の餌を飲むべきとてそこを去る 
  34. `しばしありて飢ますます甚しければ 
  35. `かさねて思ふに 
  36. `今は堪へがたし 
  37. `たとへ此餌を飲むとも嗚呼に捕れんやは 
  38. `もとよりは相識るものなれば 
  39. `何のはばかりかあらんとて 
  40. `遂に餌をのむ
  1. `文四はやく糸をめて我を捕ふ 
  2. `こはいかにするぞと叫びぬれども 
  3. `かつて聞かず顔にもてなして 
  4. `縄をもて我を貫き 
  5. `芦間に船を繋ぎ 
  6. `我を籠に押し入れて君が門に進み入る 
  7. `君は賢弟と南面の間にして遊ばせ給ふ 
  8. `掃守傍に侍りてふ 
  9. `文四がもて来し大魚を見て人々大にでさせ給ふ 
  10. `我其とき人々にむかひ声をはり上げて 
  11. `旁等は興義をわすれ給ふか 
  12. `させ給へ 
  13. `寺にかへさせ給へとに叫びぬれど 
  14. `人々しらぬにもてなして 
  15. `只手を拍つて喜び給ふ 
  16. `鱠手なるもの 
  17. `まづ我両眼を左手にてつよくとらへ 
  18. `右手ぎすませし刀をとりて俎盤にのぼし 
  19. `既に切るべかりしとき 
  20. `我くるしさのあまりに大声をあげて 
  21. `仏弟子を害する例やある 
  22. `我を助けよ助けよと泣き叫びぬれど聞き入れず 
  23. `終に切らるるとおぼえて夢醒めたりとかたる
  1. `人々大に感でしみ 
  2. `師が物がたりにつきて思ふに 
  3. `其度ごとに魚の口の動くを見れど 
  4. `更に声を出す事なし 
  5. `かかる事まのあたりに見しこそいと不思議なれとて 
  6. `従者を家に走らしめて 
  7. `残れるに捨てさせけり
  1. `興義これより病癒えての後 
  2. `天年をもてりける 
  3. `終焉に臨みて 
  4. `画く所の鯉魚数枚をとりてに散らせば 
  5. `画ける魚紙繭をはなれて水に遊戯す 
  6. `ここをもて興義が絵世に伝はらず 
  7. `其弟子成光なるもの 
  8. `興義が神妙をつたへて時に名あり 
  9. `閑院の殿の障子にを画きしに 
  10. `生ける鶏この絵を見て蹴たるよしを 
  11. `古き物語に戴せたり